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本にまつわる話を5篇収録した短篇集。趣はそれぞれ異なっているが、どの短篇も書籍への思いが溢れるほど詰め込まれ、読み応えがある。とりわけ、冒頭の「ハンノキのある島で」は、本の出版に制限のかかった近未来において、地方都市へ帰郷した中年の女性作家の日常を淡々と描きながら 本の未来についての真剣な考察に踏み入っていく傑作で、強い印象を残す。
新刊の寿命が六年と限られ、保存書籍指定のないものは全て廃棄すると定めた「読書法」が施行された近未来。どうやって六年後に廃棄されるのかというと、四年から六年の間に完全分解するインクで印刷されているのだ。「読書法」によって、聖書、神話、シェイクスピアやドストエフスキーなどの古典は保存されるが、ミステリで言えば、施行後に残されたのはコナン・ドイルやクリスティの数冊だけであり、クイーンもディクスン・カーも残らない。SFに至っては、はっきりとは書かれていないが、アシモフの代表作は残るようなので、おそらくそれだけだろう(それが《黒後家蜘蛛》シリーズだったらSFは何も残らないことになるし、《ファウンデーション》だとしたら大変な皮肉である)。電子データは残されているのだが、国家の厳重な管理の基に置かれ、一般庶民は触れることができない。意外にもこの法律は、過去の作品と常に比較されてしまうクリエイターからの支持と、過去の読むべき本に翻弄される読者からの支持を得て、成立してしまうのだ。なるほど、作家の側からすると、せっかく良いアイデアを思いついても、過去にあったと言われてしまう危険を回避できるわけで、それなりのメリットがある。読者としても、本が置けないので新刊が買えないというデメリットから解放される。いいこと尽くめだ。って、ちょっと待った。それはやはり短絡的な考えであって、クイーンやカーにはクリスティにはない魅力があるわけだし、確かにドストエフスキーの偉大さにはかなわないかもしれないが、ハインラインにもクラークにも見るべき点はあるだろうし、ディックやヴォネガットやバラードやディレーニイやゼラズニイやウルフやプリーストのない世界ってつまらないのではないだろうか。と思った人がやはり(少数ながら)いたのだろう。「読書法」への反対運動は(少数ながら)存在した。