『ビブリオフォリア・ラプソディ』高野史緒(2024年5月/講談社)
2024-08-31


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主人公の夫は、書籍の電子データを他のデータ上に拡散させるなどの違法活動に関わった罪で投獄されている。主人公の従兄弟四郎(別の短篇では主役となっている)の娘は、激烈な反対運動の末に自ら命を絶ってしまう。こうした反対派に囲まれて自らも反対の側にいる主人公の女性作家、久子の立ち位置は揺らいでいる。彼女は「読書法」の中で作家活動を続け、発禁処分を受けながらも書き続けていく。実作者として、制限付きではあっても書きたいものを書き、それが読者に読まれることを何より大切に思っているからだ。また、「読書法」成立以前から電子書籍には賛成の立場をとっている。つまり、紙の書籍にこだわることへの批判的な視座が彼女にはもともとあり、これはどちらかというと「読書法」側に近い。「読書法」が施行される前の「のどかな時代」(すなわち現代)に行われた国際会議において、久子は、もはや本好きの庶民ほど収納の限界に達しているのが現実だと説き、「庶民の狭い家に娯楽としての書籍が何千冊、何万冊もあるという事態は、人類史上初めてのことです」と語る。「小説が娯楽として売れ、小説を書いたらカネになるという事態そのものが、歴史上、ほんの短期間だけ現れた例外的な出来事だったのではないかと思うのです」と。なるほど、これは鋭い指摘であって、過去にない事態が勃発しているわけだ。ここには、明らかに書籍が売れなくなってきた現代への警鐘があり、また、今後どうしていけば本が残っていくのかを考えるための前提が示されている。本をめぐる旧来のシステムが限界に達しているとの認識から始めようということだ。だからと言って、もちろん「読書法」が最適の解答であるとは思えない。作中では、ブラッドベリ『華氏451度』を思わせる解決法も提示されるが、うまく行かない。では、いったい、どうすればいいのか。
 作者の狙いの一つには、極端なシチュエーションを設定することによって、読者に本をめぐる困難な状況とその解決法をともに考えてほしいという願いがあると思われるが、それは見事に成功している。もう一つの狙いとして、「歴史上、ほんの短期間だけ現れた例外的な出来事」へのノスタルジイもあると思われるが、これも見事に成功している。主人公と同世代の本好きならば、誰もが心に自分なりの「共栄堂書店」を持っているだろう。主人公は最後に「ハンノキのある島」へと希望を託すのだが、読み終えた人が本好きであればあるほど、この希望を実現するにはどうすればいいかを考えざるを得ない。かく言う私もまた、自宅の本の山に囲まれ、途方に暮れながらも、考え続けていきたい。

 いかん、一作に紙数を取り過ぎた。残りは簡単に紹介していく。「バベルより遠く離れて」は、想像力に富んだ言語である南チナ語の日本で唯一の翻訳者である主人公が、日本語の言霊で呪いを書きこまれ、それを解くために日本にやって来たフィンランド人と出会い、その呪いを解く方法を思いつく話。南シナとは何の関係もない、ユニークな言語である南チナ語が面白い。風を表す語が四十六もあったり、著名な作家の名がチャツネ・キムチ・メシウマであったり、学者が大真面目な顔つきでシャレを言うようなギャップのあるおかしさが漂っている。
 「木曜日のルリユール」は、辛口の評論家として知られる主人公、森祐樹が、かつて自分が学生時代に執筆した『木曜日のルリユール』という作品が本屋に並んでいるのを見つけ、衝撃を受ける場面から始まる。ペンネームの一之森樹も、本の装幀も自分が考えていたとおり。内容も自分が書いたとおりだ。いったい、誰がどうやって出版したのか。祐樹は学生時代を過ごしたマンションを訪れ、そこで一人の男に出会う……。ドッペルゲンガーものの変奏曲として面白く読むことができた。祐樹が男との口論の過程で、本心を吐露する場面には心打たれるものがある。

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